5年ほど前に、当教室にきてくれていた生徒さん、イギリス人のお父さんと日本人のお母さんのハーフの男の子。
イギリスの教育を受けたいとの希望で、イギリスに住んでいますが、一時帰国で日本に帰り、レッスンを受けに来てくれました。
5歳くらいでイギリスに行き、今10歳ということでしたので、すっかり外国の人かなあと内心びびっておりましたが、日本語が上手で、かつのびのびと健やかに育っていて、とても楽しいレッスン、楽しいひとときとなりました。
レッスン中、
「靴下にsand(砂)が入ったから、外で靴下脱いでくる」
とルー大柴的な発言をされていました(笑)
イギリスで寄宿制の賛美歌を歌う学校に行っているようで、毎朝7時からピアノの練習、そして8時半くらいから賛美歌の練習をするのだそうです。
音楽の勉強も当然授業には多いそうです。声楽系の音楽学校というイメージでしょうか。
ピアノを弾いてもらいやっている内容を聴き、そうか、歌の伴奏が自分で自然にできるようにするために、まずコードや音階などの基礎的な部分をやらせているんだなと感じました。
その生徒さんのお母さんが、講師かなざわの学んでいるフェルデンクライスメソッドをご存知で興味を持たれていたので、理由を聞くと、
『大学のときに体育の授業の一環で「安井先生」のフェルデンクライスを受けていた』
とのこと。
びっくり!!
安井先生といえば、フェルデンクライスを日本に広めた草分け的存在の方で、フェルデンクライスのことを知るならまずこれを読むというくらいの、超有名な本を書かれた方でもあります。
安井武(故)
フェルデンクライス研究会主宰
FCJ(Feldenkrais Club Japan)
演出家(劇団俳優座)
IFF 認定 Feldenkrais Practitioner
安井先生がフェルデンクライスを教える声の音源は持っていて、大ファンのかなざわです。
それからさすがだと思ったのが、フェルデンクライスがほとんど認知されていなかった時代に、それを授業に取り入れた大学です。
お母さんの出身大学はICU(国際基督教大学:皇族の眞子さまが通っていたことでも有名なところ)だそうです。
音楽大学より先を行ってるじゃん。。。
日本の音楽大学でフェルデンクライスを授業として取り入れている学校は、現時点では『東京芸術大学』のみ。
カラダの使い方の授業の中でフェルデンクライスが応用して使われています。
日本の音楽大学はカラダの使い方について遅れすぎていると思います。
レッスンは、ほぼフェルデンクライスづくしとなりました。
お母さんも参加しての楽しい内容となりました。
すごく長い期間教室をしているわけではないですが、それなりに年数を重ねるに連れて、いったん事情で離れたけれども、また受けたいといって来てくださる、そのようなことが最近ちらほらあり、おもしろいなと感じています。
ピアノは一過性のものではなく、生涯に渡る習い事です。
こういう付き合い方もいいですね!
ピティナステップを一足先に受けてきた生徒さんの動画
小4の生徒さん。
教室としては5月、6月に開催されるピティナステップを案内していますが、彼女は自宅近くで、ピティナステップに一足先に出演してきました。
曲はブルグミュラー作曲の天使の声。
モーツアルトのきらきら星変奏曲、ショパンの英雄ポロネーズ、リストのラ・カンパネラが弾けるようになりたい〜!とがんばっています。
体、手が大きく、譜読み能力が高いので意外と夢はすぐそこかも。
(故)安井先生のブログ記事より(長文ですがすばらしい内容です)
心理療法からフェルデンクライスヘ (抄訳メモ)
初めてフェルデンクライス・メソッドと出会ったとき、私はカルチャー・ショックを受けた。
ATMレッスンを最初に受けたときには、到底平静ではいられなかった。頭痛と不安と感情の動揺に見舞われた。
初めてのFI(機能的統合)レッスンを受けた時には、母親の胸の中にいる自分を思い出して、冷静な感情を保つことはできなかった。
アマーストでのトレーニングプログラムの1年目が始まったとき、ものも言わず、表情も変えずに、2ヵ月間も床の上を転がるだけの200人以上の顔のない、感情のない、ゾンビみたいな訓練生たちと付き合うだけの気持ちの準備は私にはできていなかった。
モーシェ(フェルデンクライス)が最初の訓練期間を指導しながら、体の動きと内的過程の関係を気づぎもせず、そういう全人間的な意識を認めもしないことは、理解しがたく、また我慢ならなかった。
私は最初のこの9週間のうちの7週間を、過酷な試練に果たして耐えられるかと危ぶみながら過ごしたが、結末を見届けてやろうというだけのことだった。
この男は、レッスンの動きが私たちの中に生み出す内的体験に、本当に気づいていないのだろうか?
モーシェは滅多に個人的な指摘はしなかったし、私たちがどう感じているかも訊ねもしなかった。モーシェは、個人の内面生活は背景に、無意識へ追いやり、言いたてるべきではないという雰囲気を作り出した。(いずれ分かったのだが、こういう雰囲気は、自分の面倒を自分でみる方法を学ぶ人にとっては最善の場なのだ)
綱渡りの7週間の後、マーシャ・ジャーメイン・ハッチンソン(心理学者)と私は酔っ払って、大胆にもモーシェに直接手紙を書いた。
「親愛なるモーシェ、あなたはどうして、レッスンの動きが私たちの内部に引き起こすことがらについて一言も触れようとしないのですか? 空間を漂うような不安感、脈絡なく騒ぎたてる感情、混乱、過去のものと思っていた行動様式(強迫観念、何かが食いたくてたまらんという気持ちなど)、自己や世界に体する異常な認識、それから、様々な身体的徴候(吐き気、頭痛、不眠、吹出物なんどはほんの序の口です)を一体どうすれぱいいのでしょうか?」
それは金曜日の夜だった。週末はのろのろと過ぎた。マーシャと私は不安だった。モーシェのいつもの流儀でこっぴどくやっつけられるだろうと思った。
ついに月曜の午後、モーシェは青いシャツのポケットから質問状を取り出して喋りはじめた。「これは専門家からの質問だ。心理学のね」私の記憶によれぱ、大体このようなことを言った。
「あなたたちの内面生活の不快や不安は、無力感、不安定感の現われですね。自分を安定させる方法を学んでください」
モーシェは心理学には全く疎いのか、それとも重大な新しい見地を指摘したのか。
【治療から学習へ】
その後1年の間、私はこのモーシェのメッセージをひねくりまわしていた。
これを書いている今は、治療《セラピー》と学習は違うのだということが分かっている。
私たちがATMで体験したことは、自分の内面生活のプロセスに対する不快感だったのだ。
だから、私たちは治療的見地から治療《セラピー》を求めてしまったのだ。
私たちがやったようなやり方をすれぱするほど、治療の材料ばかりを考えることになり、ますます無力感に苛まれたのである。
ところが、モーシェが言わんとしたのは、私たちの強迫的行動こそが無力感を生み出すということだった。
私たちが自らの無力感に直面することになったのは、よりよい内面性を自分に授けるためなのであった。
私たちが体験したものは、私たち自身の行動の結果にほかならない。
さまざまの徴候を見せた私たちの不快感は、わざと呼び起こされたものであり、ある意味ではよいトレーニングによって、問題や限界に迫った結果だとも言える。
私たちが出会った困難は、自分自身にいかに対処するかも知らずに、急いで結果を求め過ぎたせいだった。
最善をつくそうとしたけれども、結局は不快感と情緒不安を増幅するようなやり方を燥り返していただけだった。
学ばねばならなかったのは、可能性の感覚、快適な感覚を発展させることであった。
一言で言って、私たちにとって、また私たちの職業上の見地からして、長い道のりではある。
セラピーの概念の中には、病気治療の場合と同じく、こうあらねばならないというプラトン的な理想モデルが存在する。
病気になるのは、そのモデルからの逸脱なのである。ほとんどのセラピーとほとんどの治療モデルは、問題、診断、予後、治療計画を扱うが、それは物事を正すため、理想モデルヘ戻すことを目的としている。
だから、心理療法を行なうためには、心理学的問題を発見しなければならない。
それに比して、学習は、新しい技能、新しい可能性の発展を目的とし、感情の体験、増幅、解釈、表現などにはあまり重点をおかない。
学習という方策は、私たちの欲求するものを実現するための別の方注を生み出すことに集中する。
苦痛、欲求不満の悪循環、強迫観念的な行動、性行為の失敗、心身症などは、欲するものが得られない場合の共通した徴候だ。
望ましくない結果をもたらしたり、望ましい結果をもたらしてくれないコンテキスト(諸関係)、根本的原因は、より強められ、身についてしまう。
それに対し、学習のプロセスは、技能を獲得して、求める結果を実現できるような状況を生み出してくれる。
ATMやFIでは、快く楽な感じやハーモニーを求めながら、それらを味わっているうちに、快適な感覚の中で動きが上達し、内面生活のことを気にかける必要はない。
不安も気苦労も、無力感も余り感じなくなる。
私たちの内面生活は、調和のとれた行動(行動のハーモニー)を反映し、なにかができないという問題はどこかに隠れてしまう。
自分の体験することに十分対処できるようになり、強迫観念に悩まされることも、セラピーを受ける必要もなくなる。(まさにその理由で、セラピストたちの中には―特に精神分析医たちは―自分の患者たちがフェルデンクライスをすることをやめさせている。問題がなくなり、不安が弱まってしまうわけだから、セラピーの材料が行方不明になる)
今日、精神が身体に影響を与える、「心が病を癒す」ことを発見したと思い込んでいるひとは、少なくない。
しかし、もう一つ、「体が心に教える」という発見がある。
この身体の精神への影響こそ、モーシェの貢献を説明するもう一つの面である。
しかし、次の発見、真にフェルデンクライスが発見したことは、
『身体は精神であり、精神は身体である』
ということである。
一方の前進は他方の前進である。……モーシェは、精神と身体の分かちがたい一体性をきわめて明確に述べた最初の一人である。
体のあらゆる部分と心のあらゆる面を含んだ我々の全ては、我々のどのような感覚、感情、思考、運動にも含まれている。
そういう考え方にたてば、声からでも、歯からでも、情動からでも、手書き文字からでも、夢からでも、どんな人にもアプローチすることができる。
【フェルデンクライスの文化的特徴と背景】
モーシェが"Awareness Through Movement"(安井武訳「フェルデンクライス身体訓練法」1982年大和書房 p.47-57参照)で述べているように、人間の行動には、感覚、感情、思考、運動という四つの要素が含まれているが、各要素は切り離すことはできず、互いに他の要素を含んでいる。自己開発に取り組むに当って、運動の面からアプローチするのは、それが一番コントロールしやすいからである。
(ユダヤ人社会の強制収容所体験に関して)心理的、情緒的な面に深入りする方法は、強制収容所体験をもつユダヤ人に対しては愚かな方法だと言える。
快いもの、快適なものに焦点を当てるやり方のほうが有効である。過去を洗い流すことはできない。
しかし、感じているものを変えるために、今までとは違ったふうに行動することで、新しい体験を味わい、自然に有機的に治療するようにもって行くことができる。
Yvan Joly:FROM BODY ORIENTED PSYCHOTHERAPIES TO FELDENKRAIS(Feldenkrais Joumal No.4 p.4-7)
【生徒さん募集&レッスンの空き状況】
レッスンの空き状況を更新しました。
以下、2019年4月20日現在の状況です。
- 生徒さんの募集を継続しています。レッスン枠が残りわずかとなっております。お早めにご利用くださいませ。
- 募集しているコースは以下となります。『子供のレッスン』『大人のレッスン』『発達障がいその他の障がいをもつお子さまのレッスン』。
- 『子供のレッスン』『発達障がいその他の障がいのお子さまのレッスン』:今年度の募集を終了しました。空きが出ましたらお知らせいたします。
- 『大人のレッスン』『身体の調律コース』『面談セッション』:午前中または午後の早い時間帯にいらっしゃることができるようでしたら、お受けできる枠があります。(単発のレッスンのみとなります)
【料金はこちら。】
【ピアノの先生募集!!】
さちピアノ教室はおかげさまで、個人のピアノ教室としては異例のぶるいの多くの生徒さんを持ち、安定した運営を続けています。
年度替わりの際に、進学等により多少の空きが出ることがありますが、ほぼ定員いっぱいで、生徒さんを増やすことがなかなかできない状況です。
従来の精神論に頼らない科学的な根拠に基づいた指導法をもっと広げ、本質的な意味で生徒さんの人生の質をあげることに貢献していきたいと考えています。
そこで、指導方針に共感し、一緒に教室の運営に携わってくださるピアノ講師の方を募集します。
【条件】
- 行田市、鴻巣市、羽生市近辺に居住されている方。
- ご自宅の一室をレッスン室として使用することのできる環境にある方。
- 音楽大学、普通大学の音楽科、もしくは相当する音楽系の学校出身者。
- 専攻楽器は問いません。(ピアノでなくてもOK)
- 講師かなざわさちのブログに目を通して頂き、指導法に共感、興味を持てる方。
- 年齢は不問。
- 多少のPCスキルのある方。(Eメール、ワード、エクセルの基本機能が使えること)
- 稼働日数、稼働時間はお任せします。
【待遇】
業務委託契約(大手の音楽教室や、個人経営の教室の報酬を上回る待遇をお約束します。)
ご自身の無理のない範囲でレッスンできるため、プライベートとの両立もしやすいです。
※詳細は、メールや直接お会いしての面談の中でご説明いたします。
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