子供の頃から、現在に至るまで様々な先生にピアノを習ってきました。新学期で先生の変わるこの時期ですが、先生の選び方について考えてみたいと思います。
ピアノの先生には、大きく分けて2つのタイプがあると思います。
① 天才肌で、努力をさほどせずとも指が思うように動き、譜読みも苦労せずできてしまったタイプ。
② 能力は平均値だけれども、努力によって、技術や譜読みの能力を獲得してきたタイプ。
私は、どちらかと言えば②のほうに該当します。
一般的に、有名な先生や大学の教授になるような方というのは、①が多いです。それも一つの真理ではあると思います。ですが、ピアノを弾く能力が高くて様々なコンクールの受賞歴があるとか、学歴がすごいなど「高学歴か否か」みたいなところで選ぶと、良くない結果になることがあります。
私は、小学生のときにものすごく恐ろしい藝大出身の先生に習っていました。(母親に藝大信仰があったため(+_+))その頃の私は本当にぼんやりしていて、真ん中のドがどうしても覚えられず、「YAMAHA」と書いてあるからここがドだ!と思って必死に鍵盤を探していました。
そんな私を見て、天才肌のその先生は、四六時中イライラしていたのを覚えています。先生から見ると、「どうしてこの子はできないんだろう」→「練習してないからだ!」というところに行きつくらしく、いつも怒られていました。
譜読みに関しても同じで、小学4年生のときにようやく、「ト音記号の高いドがここにあるから、高い音はここから読めばいいんだ!」と気づくまで、地獄のような譜読み生活でした。先生は、私がなぜ読めないのかわからなかったみたいです。
その後中学、高校、大学で習った先生というのは、それこそプロのピアニストで、①のタイプの方々でしたから、私がどこでつまずいているのか理解して、それを治そうとしてくださる方は残念ながらいらっしゃいませんでした。
天才肌の方というのは、音楽が目指す方向は教えてくれるけれども、じゃあそれを実現するにはどのように体を動かせばよいかという話になると、「練習!」の一言でした。
ご自身が当たり前にできることなので、説明ができなかったのではないかと思います。
「ここができない」「姿勢が悪い」「歌えてない」「弾き方が悪い」「体が硬い」など、上記の先生に言われ続けたため、私の脳みそには「自分は下手!」ということが刻みこまれていきました。いろんなことに支障をきたしたし、ピアノも一時期大嫌いになりました。すべてを先生のせいにしてはいけませんが、役割は大きいです。
自分ができなかったことを相手に教えるというのは、相手の気持ちもある程度わかるし、そのプロセスを、身を持って体験しているので伝えやすいです。逆に、もともとできることを相手に伝えようとするのは、けっこう大変です。
『ピアノが上手な人=教えることが上手な人』とは限らないということです。
留学経験があるとか、コンクールですごい賞を取っているとか、高学歴とか・・・、何を判断材料にすればよいか、先生の選択って難しいですよね。
私は『わかるようになるため、できるようになるためのプロセスを知っている人』が良いと思います。
「できるようになるためのプロセス」を知る手がかりは、人についての学びにあります。
私にとっては、フェルデンクライスのトレーニングを受けていること、ディスポキネシスのレッスンを受けていることが、人についての学びです。というか、これなしには教えられないと思います。
ピアノに限らず何か先生に習うようなときは、それが上手とか、学歴が高いとか、実績があるか否かよりも、むしろ「できないことをできるようにするプロセスについて、その先生が真剣に学び続けているかどうか、そしてそれが人に共通して効果のあるものであるかどうか(独りよがりでは意味がない)」を判断基準にすると良いと思います。