人を動かしたいと感じることはありますか?
例えば、人間関係において理解してほしいと思ったり、ビジネス上で売りたいものがあったり、あるいはお子さんに言うことを聞いてほしいと思ったりするとき・・・
私は、小さい子供や発達障がいのお子さんをレッスンで数多く見てきて、いつも思っていることがあります。
『北風と太陽』そのものだな・・・と。
北風と太陽(かなり大雑把なあらすじ)
みなさん一度は読んだことのあるイソップ童話ですので、超簡単なあらすじを。
まず、北風が力いっぱい吹いて旅人の上着を吹き飛ばそうとするが、かえって上着をしっかり押さえてしまった。
次に、太陽が燦々と照りつけると、旅人は自ら上着を脱ぎ、太陽の勝ちとなった。
この童話の教訓はご存知ですよね?ただ優しくする、あまい態度をとれば良いというのとは違います。
相手を動かそうと思って行動に出たとき、相手は余計に動かなくなるのです・・・
生徒と接するとき
私が、特に子供の生徒に接するとき、思うような取り組みにならないなと感じることは、しょっちゅうです。(素直に従ってくれる子がいると、大丈夫かなと不安になるくらい(-_-;))
教え始めてから2年間くらいは、私の態度が「北風」な時は多かったように思います。
もともと、今まで習ってきた恐ろしい先生方が反面教師であったため、「怖い」方面には滅多にいきませんでしたが、指示に従ってくれない生徒には、従ってほしいと強く思ってあの手この手で接したり、発表会前なのに、演奏が出来上がってないなあと思うような時には、レッスン中に何回も弾かせたり、いろんな課題を出してみたり・・・
上の文章を読むと、そんなに悪くない対応では?って思われる方もいらっしゃるかもしれません。
でもこの方法で、かえって動いてくれなくなったのです。
私の行動というよりは、動かしたいという『気持ち』、これが生徒に伝わっていたと思います。
フェルデンクライスでも同じこと
フェルデンクライスで、施術の練習をしているときも言われます。
『相手を動かそうとしてはいけない。やりやすいところを見つけて一緒になって動いていると、自分で動くようになる。』
これは、体験しないとわかりにくいのですが、相手の固いところを柔らかくしたいと思って、そこに集中して施術しようとしたとき、途端にロックがかかったように動かなくなることがあります。
柔らかくしたいのに、ロックがかかっちゃうなんて最悪ですよね・・・
じゃあどうすればいいんだ!
って思いますよね。当然です。
一つ頭に置いておかねばならぬのは、相手が誰であろうと、動かすことができる存在ではないということです。
こちらが動かそうとすれば動かなくなる、結局は自分の意志で動く生き物なんだと。
相手を動かしたいと思う気持ちを手放してその人を見てみると、どうですか?
相手がしていることにはすべて理由があり、その人がなぜそれを選んでそうしているのか見えてきたりします。
例えばピアノをなかなか弾いてくれない子がいたら、
- なぜ弾きたくないか聞く。(体調の問題だったり、学校で嫌なことがあったり、お母さんとケンカしちゃって・・・とか、はっきりした理由があること、意外と多いです。)
- どうしたら弾きたくなるか聞く。(私がやりたくなる内容だったら受けます。)
- 今は弾きたくないと言ったら、その気持ちは受け入れる。(でも、先生のお仕事は□□□ちゃんの言うことを聞くことではないから、先生はピアノの練習するよ、と声をかける。)→演奏を聴くのは良いことなので、一石二鳥。でもほとんどの場合に「じゃあ弾く!」となります。むしろ私のピアノを聴かないのはなぜでしょう(:_;)
最終的に、まれに全くピアノを弾かないこともありますが、そこで有益な話を聞くことができて今後に生かせたり、身体感覚を使った遊びを取り入れることができて、結果的にはピアノ演奏に生かすことになったりします。
相手を理解しようと努力し、でも自分自身を見失なわずにその人に動きを添わせていると、けっこう良いところに着地するんだなと最近は実感できています。
動かされたと感じると、それはもはや自分の意志ではなくなります。
そうすると、本当は乗り越えられるような小さな山でさえ、越えられなくなってしまう。
やらされていると思ってしまう状況は、親御さんにとっても私にとってもありがたくないことです。
そうは言っても、理解するためにはかなりの努力が必要です。
発達について、心理学、身体感覚、人の体についてetc・・・。
その人の行動の意味を知るための知識がないと、適切な対応策が練れないからです。
だから私はずっと学び続ける必要があると思っています。(今はシュタイナー教育とフェルデンクライスによって学んでいます。)
動かそうと思う気持ちを手放します。(私も。)
相手と自分は違うと感じることで、見えてくることが必ずあります。